
ここから疫学に入ります。保健統計が「数を数える」話だったのに対し、疫学は「なぜそうなっているのかを突き止める」話です。
疫学の入口は、定義・歴史・モデルの3つ。地味に見えますが、歴史の2つのエピソードは、そのまま研究デザインの実例になっています。ジョン・スノーは記述疫学の、高木兼寛は介入研究の教科書的な事例です。ここを物語として頭に入れておくと、研究デザインの分類が一気に楽になります。
この記事は、もともと解説授業の動画で話している内容を記事に起こしたものです。衛生の講義はYouTubeで全編無料公開しているので、読むより耳から流し込みたい人はそちらもどうぞ。
Contents
疫学の定義
人間集団における疾病・健康関係の事象の頻度や分布を観察し、発生原因を究明して、予防・健康増進につなげる学問。 これが疫学の定義です。
定義の中にキーワードが3つ入っています。
- 人間集団における … 個人ではなく集団を見る
- 頻度や分布を観察 … まず数える
- 発生原因の究明 → 予防、健康増進 … 数えて終わりではなく、対策まで持っていく
「集団」「観察」「予防」。この3語が入っていない定義文は疑ってください。
歴史①ジョン・スノーとコレラ ― 記述疫学の成果
19世紀のロンドン。コレラが流行しましたが、当時コレラ菌という病原体はまだ発見されていませんでした。
イギリスの医師ジョン・スノーは、患者の発生場所を地図にプロットしました。すると、特定の井戸の周りに患者が集中していることが見えてきます。そこで彼はその井戸を封鎖し、流行が収まりました。
ここが決定的に重要です。病原体が何かわからないまま、対策が打てた。 「ヒト・時・場所を観察して、異常な集積性(=流行)を見つけ出す」――これが記述疫学の考え方そのものです。
ITMZの記載について:マインドマップではコレラの成果が「記述統計の成果」と書かれていますが、正しくは記述疫学です。記事では正しい語で書いています。
歴史②高木兼寛と脚気 ― 介入研究の成果
もう1つが日本の話です。高木兼寛は海軍軍医で、脚気の原因が食事にあると考えました。
1883年、遠洋航海に出ていた練習船の乗員376名のうち169名が脚気にかかるという事態が起きます。高木は、食事中の炭素:窒素比が高いと発生することに注目しました。そして1884年、季節・乗組員・航路などの条件をそろえたうえで、白米主体の食事を麦飯や洋食に変えただけで航海を実施したところ、脚気はほとんど発生しませんでした。
条件をそろえて、こちらから食事を変えた。 これは観察ではなく介入です。だから高木の研究は介入研究の始まりとされます。
なお、脚気の正体がビタミンB₁欠乏だとわかるのはこの25年以上あとのことで、鈴木梅太郎が米ぬかから抽出に成功します。高木は原因物質がわからないまま、予防に成功したわけです。
スノーも高木も、「原因物質がわからなくても予防できる」ことを示した。 疫学の強みがここに出ています。
感染の種類 ― 顕性感染と不顕性感染
モデルの話に入る前に、短く用語を1つ。
- 顕性感染:感染が起きて、病原体が体内で増殖し、発病する
- 不顕性感染:感染が起きて、病原体が体内で増殖しても、何の症状も示さない
不顕性感染でも、人にうつすことはあります。 新型コロナウイルス感染症で広く知られるようになった概念です。
三角形モデル ― 感染症のためのモデル

感染成立の三要因を表したモデルです。頂点は3つ。
| 要因 | 中身 |
|---|---|
| 病因 | 感染源(病原体の排出) |
| 環境要因 | 感染経路 |
| 宿主要因 | 宿主の感受性(抵抗力) |
流れとしては、感染源 → 感染経路 → 宿主の感受性の順につながります。
このモデルの主張は1つだけ。3つのうち1つでも欠けたら、流行は起きない。
- 病原菌がいなければ感染は始まらない
- 感染経路がなければ感染しない
- 宿主の抵抗力が十分なら感染しない
だから感染症対策は、感染源対策(隔離・消毒)・感染経路対策(手洗い・マスク)・感受性対策(予防接種)の3方向になります。三角形モデルは、感染症に対して使うモデルである点を押さえてください。
車輪モデル ― 感染症も非感染症も説明できる

今の日本で問題になっている病気は、感染症だけではありません。生活習慣病のような非感染症が大半です。三角形モデルは感染症専用なので、これらを説明できません。
そこで使われるのが車輪モデルです。
中心に宿主要因(遺伝など)を置き、その周りを3つの環境要因が取り囲みます。
- 物理・化学的環境要因
- 生物学的環境要因
- 社会・経済的環境要因
構造としては、環境要因と宿主要因に大別され、それらが相互作用して疾病が発症すると考えます。これを多要因原因説といいます。
2つのモデルの使い分け
| 三角形モデル | 車輪モデル | |
|---|---|---|
| 対象 | 感染症のみ | 感染症も非感染症も |
| 構成 | 病因・環境要因・宿主要因の3頂点 | 中心に宿主要因、周囲に3つの環境要因 |
| 考え方 | 1つ欠ければ流行しない | 多要因原因説(相互作用) |
選択肢では「三角形モデルは非感染症も説明できる」という形でひっかけてきます。非感染症まで説明できるのは車輪モデルです。
また、車輪モデルの中心は宿主要因(遺伝)であって、病因ではありません。図の形をそのまま覚えるのがいちばん速いです。
国試ではこう問われる
| 回 | 問われ方 | ポイント |
|---|---|---|
| 第97回・問127 | 高木兼寛の脚気研究についての記述 | 症例対照研究ではなく介入研究。また「白米に原因物質が含まれている可能性は排除できない」という批判的な読みが問われた。鈴木梅太郎の抽出物=ビタミンB₁ |
| 第98回・問126 | イタイイタイ病の汚染地図と有病率の図 | 「患者発生地域と汚染地域が一致するから、カドミウムを原因とする仮説が立つ」=記述疫学。ジョン・スノーとまったく同じ構造 |
第98回のイタイイタイ病の問題は、日本版ジョン・スノーです。地図に分布を描いて仮説を立てる。記述疫学は仮説を「立てる」段階であって、因果関係を「証明する」ものではない――この線引きが、そのまま正誤の分かれ目になります。
まとめ
- 疫学の定義は「人間集団における疾病・健康関係の事象の頻度や分布を観察し、発生原因を究明して予防・健康増進につなげる」
- ジョン・スノー(コレラ)は記述疫学。地図にプロットして井戸を封鎖。病原体不明のまま対策できた
- 高木兼寛(脚気)は介入研究。条件をそろえて食事を変えた。原因は後にビタミンB₁欠乏(鈴木梅太郎)
- 顕性感染は発病する、不顕性感染は症状が出ない(それでもうつす)
- 三角形モデルは感染症専用。病因(感染源)・環境要因(感染経路)・宿主要因(感受性)の3つで、1つ欠ければ流行しない
- 車輪モデルは感染症も非感染症も説明できる。中心が宿主要因(遺伝)、周囲が物理化学的・生物学的・社会経済的環境要因。多要因原因説
次は疫学の指標と研究デザイン|有病率と罹患率・観察研究と介入研究を読んでみてください。
動画で学びたい人へ
この内容は、YouTubeの講義動画でも解説しています。該当箇所から再生されます。
衛生を、1枚の地図として頭に入れませんか
この記事の冒頭に載せたマインドマップは、衛生という科目のほんの一区画です。実際には、保健統計・疫学から疾病の予防、食品衛生、化学物質の毒性、生活環境までが、1枚の地図としてひと続きにつながっています。
衛生は覚えることが多い科目ですが、数字や分類を単体で暗記しようとすると、似たものどうしが混ざって崩れます。「この物質がどの分類に入って、どの法律で規制されているのか」が地図として見えていると、覚える量そのものが減ります。
衛生のマインドマップ(¥3,500)は、その全体像を1枚に収めたPDFです。地図をたどりながら話す講義動画はYouTubeで全編無料公開しているので、この進め方が自分に合うかどうかは先に確かめられます。