
薬剤師国家試験を受ける人の中で、「熱力学、私すごい得意だよ」という人はものすごく少ないと思います。そしてそれは、あなたの理解力の問題ではありません。この分野の構造と、よくある対策本の構成が噛み合っていないから起きていることです。
熱力学は、気体の性質から始まって、純物質をやって、混合物をやって、溶液をやって、電解質溶液をやって、電気化学までいく——下からどんどん積み上げていくタイプの分野です。ところが対策本は「出るところだけ」を切り出して暗記させる構成になっていることが多い。すると、こことここは本当はつながっているのに、そのつながりが見えないまま、バラバラに覚えることになります。頭の中で体系化しないまま、暗記量だけが増えていく、というわけですね。
この記事は、熱力学クラスター全15本の入口です。どこから登って、どこがゴールなのかを先に頭に入れてから個別の記事に進むと、途中で迷子になりません。
なお、この一段下の階に分子間相互作用があります。分子1個・分子2個のスケールで働く力を扱う単元で、熱力学はそれを集合体としてもっと大きな視点で扱い直す分野です。まだ読んでいなければ、先にそちらを通しておくと足場が固まります。
この記事は、もともと解説授業の動画で話している内容を記事に起こしたものです。物理の解説授業は分光分析法の範囲をYouTubeで無料公開しているので、読むよりも動画で一気に見たい人はそちらもどうぞ。
ゴールは「化学ポテンシャル」
先にゴールを言ってしまいます。熱力学で薬学とつながる一番大事な概念は、化学ポテンシャル μ です。
薬学でやりたいのは、たとえば「ある物質を溶液の中に入れたとき、それが自発的に変化するのか、しないのか」を知ることですよね。溶けるのか、析出するのか、膜を通って移動するのか、反応が右に進むのか。その判断の指標になるのが化学ポテンシャルです。
化学ポテンシャルは、ざっくり言えば簡単化された総合指標です。中身はエンタルピー(熱のやりとり)とエントロピー(乱雑さ)の両方で、その2つを1本にまとめたものが正体です。「こっちのほうが低くなるから、そっちに動くよね」——この一言で判断できる形にまとめ上げたもの、それが化学ポテンシャルです。
ここまでの15本は、全部この化学ポテンシャルにたどり着くための道のりだと思ってください。
なぜ気体から始まるのか
いきなり溶液の化学ポテンシャルを扱うことはできません。順番に理想化しやすいところから固めていきます。
- 気体 — バラバラに動いていて、固体や液体より分子間の相互作用が少ない。一番理想化しやすいので、ここから始めます
- エネルギー(熱と仕事) — 温度を一定にする、圧力を一定にする、といった条件ごとに、熱と仕事がどういう関係になるかを整理します。ここが基礎
- エントロピーとギブズエネルギー — 「取りうる状態のパターンが一番多いのはいつか」という乱雑さの考え方から、自発変化の向きが判定できるようになります。ただし計算が煩雑なので、温度と圧力を一定という条件に限って簡単化したのがギブズエネルギー
- 純物質の相平衡 — 氷が水になる、水が水蒸気になる。なぜそれが起こるのかを、純物質について説明します
- 化学ポテンシャル — ここでようやく混合物・溶液に手が届きます。溶液の中に2つの物質を入れたとき、それぞれの化学ポテンシャルはいくつか。どちらが低いから反応が進むのか
- 溶液の性質・混合物の相図 — 束一的性質、そして混合物の相図。純物質の相図はもっと前でやるので、ここでは複雑になったほうを扱います
- 電解質溶液・電気化学 — 最後にイオンが入った溶液と、電池の話まで
この順番そのものが、熱力学というマインドマップの背骨です。
全体の地図:15本の記事
| # | 単元 | この記事で分かること |
|---|---|---|
| 1 | 気体の性質 | 理想気体と実在気体、ファンデルワールスの状態方程式、気体分子運動論とボルツマン分布 |
| 2 | 熱力学第一法則の基本用語 | 系の3分類、状態関数と経路関数、ΔU = q + W |
| 3 | 定容・定圧・等温・断熱過程 | 4つの過程での熱と仕事、Cv と Cp の関係 |
| 4 | エンタルピー | なぜエンタルピーを導入したのか、標準生成エンタルピーとヘスの法則 |
| 5 | 自発的反応の判断 | エントロピーの定義式、ΔS_tot、そしてギブズエネルギー |
| 6 | モルギブズエネルギーと純物質の相平衡 | dG = VdP − SdT、相律、状態図、クラペイロン式 |
| 7 | 部分モル量と化学ポテンシャル | 部分モル体積、μ = μ° + RT ln(p/p°)、気体が自発的に混ざる理由 |
| 8 | 平衡定数の導出とファントホッフ式 | Δ_rG° = −RT ln K、ファントホッフ式とアレニウス式の見分け方 |
| 9 | ラウールの法則とヘンリーの法則、活量 | 溶媒と溶質で法則が違う理由、活量と活量係数 |
| 10 | 束一的性質 | 沸点上昇・凝固点降下・浸透圧、ファントホッフ係数 i |
| 11 | 混合物の相図(気液平衡) | 温度組成図、てこの規則、分留、共沸混合物 |
| 12 | 混合物の相図(液液平衡) | 相互溶解度曲線、上部・下部臨界溶解温度 |
| 13 | 混合物の相図(固液平衡) | 融点図、共融混合物、固溶体 |
| 14 | 電解質溶液 | 平均活量係数、イオン強度、デバイ・ヒュッケルの極限則、モル伝導率 |
| 15 | 電気化学 | 標準電極電位、ダニエル電池、濃淡電池 |
「出ないところ」も、あえて残してあります
マインドマップ薬学の熱力学の地図には、薬剤師国家試験ではほぼ出ない部分も載せてあります。そこは灰色のブランチにしてあって、「覚えなくていい」と分かるようにしてあります。
なぜ消さずに残しているのか。出るところだけを虫食いのように切り出すと、理論が組み上がらなくなるからです。たとえば部分モル量と化学ポテンシャルのあたりは、国試的にはほとんど出ません。出るのは「ファントホッフ式とアレニウス式、似てるけどどっちがどっち?」といった、つまみ食いのような問いだけです。でも、その式がどこから来たのかを一度通っておくと、覚えなくても思い出せるようになります。
だから進め方としては、まず全体を通して理解する → そのうえで、覚えるときに灰色の部分は落とす。これでいきましょう。最終的な暗記量は変わりませんが、「こことここがつながっている」という状態で覚えられます。
分厚い教科書のほうが、一見とっつきにくくても、順を追って丁寧に書いてあるぶん実は分かりやすかった——そういう経験、ありませんか。1を聞いて10を知るのが苦手だから物理が苦手なのであって、10を聞いて10を知るなら誰でもできる。その「10」をできるだけ短い時間で渡すのが、この教材の役割です。
試験戦略:全部を完璧にしない
もうひとつ、先に決めておいてほしいことがあります。
過去問を見ると、正答率が10%とか30%といった問題が混ざっています。私たちの目標は物理を極めることではなく、薬剤師国家試験に合格することです。 正答率10%台の問題は、解けなくて構いません。
ただし、丸ごと捨てるのとは違います。選択肢は1〜5まであるので、「2番は確実に正しい」「3番は確実に違う」が1つでも分かれば、残りから選ぶ確率が跳ね上がります。「2つ選べ」の問題で1つ確実に削れれば、あとは3択です。
- みんなが知っていることは、確実に押さえる
- そこから先は深追いしない
この分野のマインドマップに書いてあるのは、「みんなが知っていること」と「次につながること」です。まずここを理解して覚える。戦略はそのうえで組み立てます。
まとめ
- 熱力学は下から積み上げる分野。出るところだけを切り出すと理論が組み上がらず、かえって苦しくなる
- ゴールは化学ポテンシャル μ。「どちらが低いか」で自発変化を判断できる総合指標
- 道のりは 気体 → エネルギー(熱と仕事) → エントロピー・ギブズエネルギー → 純物質の相平衡 → 化学ポテンシャル → 溶液・混合物の相図 → 電解質溶液・電気化学
- 国試に出ない部分も地図には残してある。理解は全体で、暗記は絞って
- 正答率の低い問題は捨ててよい。ただし選択肢単位で削れるようにはしておく
ここが物理分野の中で一番大きな山です。かなり丁寧に順を追って進めるので、諦めずについてきてください。
次は気体の性質:理想気体と実在気体、ファンデルワールスの状態方程式から始めましょう。
物理を、1枚の地図として頭に入れませんか
この記事の冒頭に載せたマインドマップは、物理という科目のほんの一区画です。実際には、物質の物理的性質から化学物質の分析、放射化学までが、1枚の地図としてひと続きにつながっています。
公式をバラバラに覚えようとすると物理は苦しくなりますが、「この式がどこから来て、どこにつながるのか」が地図として見えていると、覚える量そのものが減ります。細切れに暗記してきたものが、1本の線になる感覚です。
物理のマインドマップ(¥3,500)は、その全体像を1冊にまとめたPDFです。無料サンプル(分光分析法の範囲)と、地図をたどりながら話すYouTubeの講義動画があるので、この進め方が自分に合うかどうかは先に確かめられます。